久宝寺寺内町~八尾を歩く
いつもは電車で通り過ぎるだけの久宝寺界隈。
久宝寺緑地という名所はあるものの、普通の住宅街かとばかり思っていた場所に行ってみた。
戦国時代、蓮如上人の布教とともに創建された顕証寺(当初は西証寺)を中心に発展した寺内町*1
町割りは、ほぼ当時のまま。
とは言っても自然に残されて今の状態になったわけではなく、平成5~10年にかけて行われた「まちなみ環境整備事業」により保存・舗装が行われたとのこと。
例えば、道路は土の道をイメージした色で舗装されていたり、壁や囲いも木目調に。
電柱も極力地中化し、当時の景観に近づけているそう。
周囲を二重の堀と土井で囲み、町の入口に6か所の木戸門を設け、各入口を入ったところはT字路にするなど、簡単に入れない仕組みになっている。
6か所の入口には地蔵尊を配置。
堀・地蔵尊は今も残る。
村民の飲料水をまかなっていた井戸。
水代として1軒あたり1升の米を顕証寺に納めていたそう。
火の見櫓は恐らく今は使っていないだろうなあ。
休憩にも最適な、「まちなみセンター」。
この中にある「安井道頓出生地の碑」。
安井道頓氏は道頓堀の生みの親と言われているが、別の人だとの学説もあり。
高田家住宅(国登録文化財)
江戸時代には油屋と称し、庄屋を務めていた。
屋敷構えは出格子と虫篭窓。
村に関する貴重な文書が多数残っている。
こちらも国登録文化財、浅野家住宅。
江戸時代に建てられ、町内で最も古い建物とされています。
この地域は、大坂夏の陣・冬の陣で主戦場り、冬の陣ではかなり大きな焼失となってしまった場所(八尾・若江の戦い)
夏の陣では、大坂城から天王寺、平野を経て進出してきた長曽我部氏の軍が、この地にあった大きな松の木の上から八尾方面の敵陣を偵察したとのこと。
この木かどうかは不明だが、「長曽我部盛親物見の松」が残る。
平野から八尾を抜けて信貴山や奈良方面へ至る街道の中継地点。
かつ、旧大和川の川筋で盛んとなった、木綿等の農産物の集積商業地として発展したこの町。