親不知4本同時抜歯日記~入院への道~
担当してくださったH医師は、虫歯を治療している歯科から預かった私の口腔内のレントゲン写真を見るなりおっしゃった。
「これ、1時間じゃ無理ですね。改めて別の日に来ていただくか…」
覚悟を決めてきたくせに、心の中でガッツポーズをするわたくし。
「でも、これ本当にやっかいな生え方してるんで、かなり腫れが続くし相当痛いと思いますよ」
トイレを済ませてきたにも関わらずちびりそうになるわたくし。
「だから全身麻酔で抜いたほうがいいと思うんですよね。抜いてる間は意識がないから苦痛もないし、点滴も打つんでかなり腫れも早く引きますよ。ただし、全身麻酔だから4日ほど入院してもらうことになりますけどね」
予想だにしていなかった「入院」という言葉に度肝を抜かれ、言葉を失うわたくし。
入院?親不知で?
「どうせ入院して全身麻酔するなら、反対側の上下の親不知も抜いてしまってもいいかもしれない。こちらは正常に生えてるから置いておいてもいいんだけど、やっぱり磨きにくいからトラブルになりやすいし、無くて困る歯でもないし」
私、この時普段使わない頭をフル回転させていろいろ考えました。
・総入れ歯サラブレッドとしては、出来るだけ歯のトラブルになりうる因子は除いておきたい。この機会に口腔内の爆弾を4本同時に撤去してしまった方がいいかもしれない。
・そら、意識のある局部麻酔より、意識の無い間にさっさと終わらせてもらう方がちびらなくていい
・抜いた後しばらく入院するなら、耐えられないような痛みに襲われても医師や看護師さんに即座に助けてもらえる
・しかも抜歯後の経過に合わせたごはんまで用意してもらえる(一人暮らしなのでごはんは自分で用意しなくてはいけない)。
「入院して全身麻酔で4本とも抜きます。」
10秒ほど考慮して医師に伝えた結論はこれでした。
親不知4本同時抜歯入院日記~プロローグ~
「とりあえず、先に親不知抜いちゃいましょう。今治療してる歯は、その後で治療しましょうねー。穴が埋まるまで、どっちみち治療はできないですしね。うちの歯科では無理なんで、専門の病院の先生に紹介状書いておきますねー^^」
歯科医にそう告げられたのは、右奥の虫歯を抜歯した日のことだった。
私の親不知は横から生えており、噛み合わせが出来ないため存在する意味が全くなく、しかも変な生え方をしているせいで磨き残しがどうしても発生してしまうため歯周病に一歩手前というところまで来てしまっており、つまりはそうとう酷い状態で、治療の度に「そろそろ抜きましょうか」「これ、このまま置いていて更に悪くなる可能性はかなり高いけど、良くなる可能性は0%ですよ」などと半ば脅されまくっていたのだが、とにかく怖いので「うーん、治療が終わってからにしようかな~」などとのらりくらりとかわしていたのである。
そしてついに歯科医の口から冒頭の発言が出た。
意訳は「抜かねーと治療しねーぞ」である。
さすがに三十路を超えて「怖いからイヤ」とか言えないし、歯科医のいう通り、抜かずに置いておいても悪化する一方なのは紛れのない事実。
そして、個人的な話になっちゃうけど、私の両親はどちらも総入れ歯だ。
私はそんな歯の弱い二人のサラブレッド。
どっちみち抜かないといけない。もう腹をくくるしかない。
私はちびらないようにトイレをしっかりと済ませた後で、専門の先生がいらっしゃる総合病院の歯科口腔外科の門をたたいた。
六角堂/京都・丸太町御池
大阪の四天王寺建立のための建材を求めこの地を訪れた聖徳太子が、仏のお告げにより御堂を建てた。これがこの寺の始まりとされる。
大通りである烏丸通りのすぐそば、ビルが立ち並ぶ都会の街並みの中に佇む六角堂は、過去に幾度となく火災に見舞われている。
その度に再建され、今なおここに鎮座し続けている。
この六角の形は、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって生ずる「六欲」を表している。
本堂にお参りする際は、角の部分に触れながら一周すると、煩悩、つまり角(六欲)をなくし円満になれるのだとか。
本堂には、聖徳太子の持仏と言われる本尊如意輪観音像、重文の毘沙門天立像などが安置されている。
境内の池は、聖徳太子が沐浴をしたとの言い伝えがある。
この池のほとりに小野妹子を始祖とする僧侶の住坊があり、それにちなんでつけられたのが「池の坊」
彼らが朝夕宝前に花を供える習慣が、のちにいけばなへと発展した。
そう、ここはいけばな発祥の地で、すぐ側には池坊会館がある。
こちらは境内にある、「池坊専応口伝」(いけばなの理論)の石碑。
六角堂の名物は、いけばなの他にもうひとつ。
京都の中心とされる「へそ石」がある。
この「へそ石」、元々は門前の六角通りにあったものが、明治初期にこちらに移転したそう。
桓武天皇の遷都の折、当時の六角堂が道路の中央にあり邪魔であった。
そこで南北どちらかに移動することを祈願すると、六角堂が自ら北方へ約15m移動したという。
その時その場に取り残されたのがへそ石だという言い伝えも残る。
六角堂と言えば、鳩。
境内にたくさんいる鳩はもちろん、鳩みくじも愛らしい。
この鳩みくじ、普段はブルーの鳩だが、桜の季節には桃色の鳩みくじが授与される。
境内にある六角柳。
平安時代、妃を求めていた嵯峨天皇が、夢のお告げにより六角堂の柳の下で絶世の美女と出会い、妃として迎えたことから、良縁にご利益があるといわれる。
隣のビルのエレベーターから見た六角堂。
ちゃんと六角形の形をしていることが見てとれる。
ちなみに展望台はありません。
エレベーターの窓からの鑑賞。
展望エレベーターがあるビルの1階にあるスターバックスコーヒーは、六角堂にちなんで柱が六角形。
六角堂境内を眺めながらお茶ができる。
他にも、着物のタペストリーが飾ってあったりと、すぐ隣の六角堂をイメージした造りとなっているのでこちらも要チェック。
久宝寺寺内町~八尾を歩く
いつもは電車で通り過ぎるだけの久宝寺界隈。
久宝寺緑地という名所はあるものの、普通の住宅街かとばかり思っていた場所に行ってみた。
戦国時代、蓮如上人の布教とともに創建された顕証寺(当初は西証寺)を中心に発展した寺内町*1
町割りは、ほぼ当時のまま。
とは言っても自然に残されて今の状態になったわけではなく、平成5~10年にかけて行われた「まちなみ環境整備事業」により保存・舗装が行われたとのこと。
例えば、道路は土の道をイメージした色で舗装されていたり、壁や囲いも木目調に。
電柱も極力地中化し、当時の景観に近づけているそう。
周囲を二重の堀と土井で囲み、町の入口に6か所の木戸門を設け、各入口を入ったところはT字路にするなど、簡単に入れない仕組みになっている。
6か所の入口には地蔵尊を配置。
堀・地蔵尊は今も残る。
村民の飲料水をまかなっていた井戸。
水代として1軒あたり1升の米を顕証寺に納めていたそう。
火の見櫓は恐らく今は使っていないだろうなあ。
休憩にも最適な、「まちなみセンター」。
この中にある「安井道頓出生地の碑」。
安井道頓氏は道頓堀の生みの親と言われているが、別の人だとの学説もあり。
高田家住宅(国登録文化財)
江戸時代には油屋と称し、庄屋を務めていた。
屋敷構えは出格子と虫篭窓。
村に関する貴重な文書が多数残っている。
こちらも国登録文化財、浅野家住宅。
江戸時代に建てられ、町内で最も古い建物とされています。
この地域は、大坂夏の陣・冬の陣で主戦場り、冬の陣ではかなり大きな焼失となってしまった場所(八尾・若江の戦い)
夏の陣では、大坂城から天王寺、平野を経て進出してきた長曽我部氏の軍が、この地にあった大きな松の木の上から八尾方面の敵陣を偵察したとのこと。
この木かどうかは不明だが、「長曽我部盛親物見の松」が残る。
平野から八尾を抜けて信貴山や奈良方面へ至る街道の中継地点。
かつ、旧大和川の川筋で盛んとなった、木綿等の農産物の集積商業地として発展したこの町。
東海村アルバム(2014年6月6~7日)
お昼は「魚康」さんにて刺身定食。
村松虚空蔵尊(真言宗豊山派・寺号は日高寺)
平安初期、弘法大師(空海さんですね)により創建され、常陸領主の佐竹氏、茨城といえばこの人、光圀公の庇護の元、栄えた由緒ある寺。
地元では「虚空蔵さん」と呼ばれ親しまれているらしく、同行した日立や北茨城の方も「虚空蔵さん」と呼んでいらっしゃった。
茨城・栃木あたりで「虚空蔵さん」と言えばこの寺をさすそう。
本尊の虚空蔵菩薩は、弘法大師が国の平穏を願って彫ったもので、そのためか厄払い・出世開運にご利益が。
人生最初の厄年である十三歳にここを参拝すると、知恵と福徳が授けられるそう(いわゆる十三参りですね)
その虚空蔵さんのすぐ隣に鎮座するのが茨城大神宮。
正式名称は「大神宮」
飛鳥時代に創建、江戸時代に光圀公が神殿を造営。
伊勢神宮より分霊を奉還して大神宮に。
お伊勢さんの系列なので、少し離れた場所に「外宮」もあるそう。
今回は虚空蔵さんの参拝がメインだったので、また次回、外宮と合わせてゆっくり訪れよう。
ちなみに、東海発電所に祀ってあった神棚のお札はこちらのもの。
2日目のお昼は「カジュアルレストラン グルヌイユ」にて常陸牛ステーキランチを。
こちらのお店、茨城県産のダチョウ(飼育しているらしい…!)を使ったメニューもあるようで、色々気になるところ。
JPARC(大強度陽子加速器施設)/茨城・東海村(2014年6月6日)
J-PARCとは、先述の原子力科学研究所の中にある施設。
Japan Proton Acceietor Research Complex (大強度陽子加速器施設)
パンフレットによると、
「大型の陽子加速器を使った実験により、宇宙誕生の謎探究から医療品の開発研究まで幅広い分野の研究が行われる最先端研究施設」
ということらしい。。。
・光速まで加速した大強度陽子ビームを標的となる金属などに衝突させる
↓
・標的原子の原子核と衝突した陽子ビームが、原子核をバラバラに壊す、「核破砕反応」を起こす
↓
・その際に発生する中性子や中間子、ニュートリノなどの「二次粒子」を使い、様々な研究をする
おおまかに説明するとこんな感じかしら。
その「大強度陽子ビームを光速まで加速させる」機器が、JRR-1に展示されていたコレだそう。
施設内に入る際は、メンバーのうち何人かが線量計を装着し、全員が靴カバーを履いて入場。
こちらが物質・生命科学実験施設。
加速器から光速で送られてきた中性子を使い、ここで様々な実験が行われます。
大部分は大学の研究だそうですが、一般企業も数社が使用しているそう。
茨城県出資のユニットもありました。
各ユニットにはひとつひとつ名前が付けられている。
写真にもある「写楽」「sofia」「大観」のほか、「アマテラス」など。
「大観」は、茨城出身の横山大観からか?
赤いランプが中性子が通過している状態、青いランプがしていない状態だそう(追記:逆だったかもしれません。要確認)
)
JAEA原子力科学研究所/茨城・東海村(2014年6月6日)
茨城県東海村にある、「JAEA原子力科学研究所」を見学してきました。
まずは施設についてのお勉強。
【どういった施設なのか】
・昭和30年に制定された「原子力基本法」に基づき、翌31年、「原子力科学研究所」と「原子燃料公社」の2つが茨城県の東海村に設立された。
原子力科学研究所:原子力の開発に関する研究・実験等、開発促進に必要なことを研究する
原子燃料公社:核燃料の原料などの採鉱・製錬・管理などの業務を行う
・平成17年、この2つが統合し、「日本原子力研究開発機構(JAEA)」となる。
・茨城県東海村に本部を置き、10地区に拠点を置いている。福井県敦賀のもんじゅ・ふげんも拠点のひとつ。
・福島第一発電所の事故後は、福島県に技術本部を置き、廃止措置や環境修復に関わる対処を取っている。
ものすごく簡単にまとめると、「原子力に関する様々な研究を行っている機関(not電力会社)」。
さて、実際に見学してみると、やはり核を扱う施設ということで、911同時多発テロ以降はかなり厳しい警備体制が敷かれている模様。
入口で身分証明書を提示し入場許可証を受け取らなければ中に入れない。
構内はとにかく広い!ので、車で移動。
敷地内にも関わらず、信号機や標識、横断歩道もあり。
そしてここは昭和32年、日本で初めて臨界に達した原子炉跡。
基礎研究や訓練に利用された後、昭和44年に廃炉・解体され、現在利用されている展示館に。
その他、
・研究用原子炉3号機(JRR-3):中性子ビーム実験、放射性同位体の生産など
・研究用原子炉4号機(JRR-4):放射線遮蔽実験、医療照射など
・原子炉安全性研究炉(NSRR):原子炉事故時の安全性研究
・ホットラボ(高放射性物質の取扱施設):使用済み燃料、放射性廃棄物を遮蔽体越しに遠隔操作
などを車の中から建物見学。
そして特筆すべきは、昭和38年に臨界し、日本初の原子力による発電を行った、発電試験用原子炉(JPDR)の跡地。
昭和61年から解体を開始し、平成8年に完全撤去完了。
平成26年現在も、まるで何もなかったかのような更地のままでした(重ね重ね、核施設ゆえ撮影禁止)。